食体験からその人の魅力を紐解く。 タブラ奏者・ユザーンの〈味の履歴書〉
その人の食体験を知れば、その人の魅力がもっと見える。ユザーンさんの〈味の履歴書〉を紹介します。
インド料理への探究心と、未知の食への好奇心と。
日本を代表するタブラ奏者が持つ、インド料理伝道師の顔。「うまい」と「新しい」を求め、地球を食べ歩いている。
最初に食べたカレーの記憶は「中辛」。子どもに目線を下げた料理も一切出てこない。親とほとんど同じ味付けで育った影響か、大人顔負けの舌ができていった。
「3歳で初めてお子様ランチを食べて、あまりのまずさに『なんだこれは!』ってびっくりしたのを覚えています。小学生のときには蕎麦に七味をかけてたし、好物はミョウガでした」
そんなマセた味覚でも、一番の思い出は地元・川越の駄菓子屋にある。30円の大根の酢漬け、50円のメロンソーダ。家で食べると「ふつう」のものが友だちと食べると妙においしい。なかでも記憶に残っているのが、もんじゃ焼きをセルフで作れる店、通称「もんじ」だ。
「店先に鉄板が置いてあるんです。数十円の青のりや紅ショウガをトッピングして、よく混ぜたら熱々の鉄板にジュッと流し込む。で、食べ終わったら公園か誰かの家にみんなでわっと向かう。駄菓子屋中心に世界が回っていた時期ですね」
初めて自ら台所に立ったのは中学時代。東海林さだおさんの本に登場する「ベーコンエッグ丼」を作った。以降、料理に熱中したわけではないが、未知の食への姿勢は今に通じている。
「本が好きで、池波正太郎さんや椎名誠さんの文章、あと『老人と海』みたいな小説からも、いろんな食文化を頭にストックしていました」
ベンガル料理に飽き飽きし、南インド料理に救われる。
高校時代、初めて本格的なインド料理に触れた。川越のインド料理店〈アラジン〉が金曜日限定で出していたビリヤニだ。当時はまだ知名度の低い料理だったが「この長い米だけ食べていたい!」と思うほど夢中になった。が、それと「毎日食べる」は別の話。大学3年生のとき、タブラを習うため東インドのコルカタに1年間滞在したところ3週目で現地の食にすっかり飽き、「食べたいものが何もない」と絶望。唯一おいしく食べられたバナナでしのぎつつ、臭みの強い魚を避けてベジタリアンのような生活を送った。パラタ(薄焼きパンのような生地)でヤギ肉を包んだ「マトンロール」など好物もできたが、真に救われたのは2カ月間のチェンナイ滞在。タマリンド、カレーリーフ、マスタードシード。コルカタのベンガル料理とはまったく違う素材や風味の南インド料理が、口に新しい風を運んだ。
「もう少しタブラに興味が薄かったら料理の道に進んだかもってくらいどハマりしちゃって。コルカタに戻ってからもわざわざ観光局に行って、南インド料理の店ありませんかって聞いて紹介してもらいました」
ただ、コルカタの飲食店を本気で開拓するようになったのはそれからずっと後、32歳のときに下宿先の食事提供がなくなってから。その頃に見つけ、毎日のように通い、今でもよく顔を出すのがベンガル料理の名店〈ロイホテル〉だ。
「魚のカレーが絶品で、人生最多で行ってる食堂かも。米の上におかずがのった皿が無造作に置かれて、全体的に清潔感がないのもポイントです(笑)」
現地に行けなくなってベンガル料理愛に気づく。
大学卒業後は毎年数カ月ずつ渡印していたが、仕事のために2014年は断念。ここで、日本にいるときはほとんど訪れていなかったインド料理店を巡るようになる。「体からスパイスが抜けたのか、ある瞬間、無性に食べたくなって」。この時期、印象に残っているのが東京・町屋の〈プージャー〉のカレーだ。口に懐かしさが広がり、飽きを感じていたはずのベンガル料理が「故郷の味」になっていることに気づかされた。大好きな南インド料理のお気に入りは、祖師ヶ谷大蔵〈スリマンガラムA/C〉。
「スキンヘッドの店主が作るミールス(色々な副菜がついた定食)が、バナナの葉にのせられて出てきます。本場の味で、めちゃめちゃおいしい」
同じく2014年からは、本腰を入れて自宅でベンガル料理を作るようにもなった。このとき頼りにしたのが、大阪に住むシタール(北インド発祥の弦楽器)奏者の石濱匡雄さん。
「彼のレシピは分量も作り方も適当なんだけど、なぜか絶対においしくできるんです。『思ってるより多く入れる』みたいなあいまいな指示でも、不思議と理解できる。食べたり作ったりの蓄積のおかげで『こうアレンジすればもっと自分好みになるぞ』って感覚もわかるから、僕にとって最高のレシピです」
電話やメールで都度作り方を聞いていたが次第に申し訳なくなり、書籍化を企画。その名も『ベンガル料理はおいしい』の出版につながった。のちに、同じタッグでレトルトの「ベンガリーカレー」も開発。本場の味を追求し、本気の試作を繰り返した結果、「おかげさまでよく売れています」とにんまり。
自分だけの地図を楽しむ、「地元」川越グルメ。
もちろん、インド料理ばかり食べているわけではない。ジャンルにかかわらず「うまいもの」が好きなユザーンさん、川越に帰ったときは地元の名店で胃袋をしっかり満たしている。
「名物の鰻は学生時代からよく食べてるし、焼きとんは〈若松屋〉が定番。最近は〈すずのや〉をよく紹介します。おでんのだしで割った日本酒は、一生飲み続けられて危険です」
故郷愛が強固になったのは大人になってから。街の中華料理店でライブをしたとき、昔からの住人にディープな情報を教えてもらったのがきっかけだ。
「あのとき、川越が実家のある街から『地元』になりました」
この喫茶店のマスターはああだ、あの酒屋の常連はこうらしい——生の情報によって街が立体的になり、自分だけの地図ができていくのも楽しい。なじみが増え、新しい店ができると足を運ぶようにもなった。本当は川越に住んでいたいけれど「東京から絶妙に遠くて」。ほどよい距離感のまま、時々満喫するのが今はちょうどいい。
次なる食の目標は、「リピーター」になること?
癖の強い料理を食べたとき、苦手に感じることはある。けれど、「まずかった」で終わらせないのもユザーンさんらしい。
「その食べ物のことを好きな人が一定数いるなら、絶対どこかにおいしさが潜んでるんです」
たとえば、揚げた鯉のはらわた。初めは泥臭いだけだったが、おいしさを探りながら食べるうちにだんだん好きになり、「メニューにあるとうれしい料理」になった。この楽しみ方は世界中、どこに行っても同じ。好奇心と探究心を携え、地域のものをその地域の店で食べるのがユザーン流「地球の食べ歩き方」だ。このスタンスが形作られたのは20歳の頃。シタール奏者の先輩に誘われ、沖縄料理屋に行ったのが始まりだった。
「見たことのない料理や酒を味わって、ちゃんと自分のお金で支払う。この体験が猛烈に楽しかったんです。一生やり続けたいぞって思いました」
その気持ちは25年以上ずっと変わらず、世界中で「出会ったことがない味」を追い求めてきた。しかしここに来て、ある悩みも生まれてきたのだとか。
「友人のジャーナリスト、津田大介さんと2人で共有してるGoogleマップがあるんです。お互いに行ってほしい店にピンを立てていって、日本だとどのエリアにも大体どちらかのおすすめがある状態なんですけど……。最近、新しい店に行くばっかりでなかなかリピートできないことにモヤモヤしてるんですよ。いまだにピンは増えていくけどすでに全部は回りきれないし、そろそろ好きな店に繰り返し行く人生を送りたい、という心境の変化がありまして(笑)」
とはいえ、ライブで訪れた各地の食文化を知るのが至上の楽しみだし、共に本を出版した石濱さんとは毎年ただごはんを食べに海外へ行くという計画もある。はたして、ユザーンさんが食の探求から逃れられる日は来るのだろうか。