持ちつ持たれつの関係性や、心地よい共生の形を模索している姿を見るのは励みにもなる。ドラマ『団地のふたり』
配信サービスに地上波……ドラマや映画が見られる環境と作品数は無数に広がり続けているいま。ここでは、今日見るドラマ・映画に迷った人のために作品をガイドしていきます。今回は『団地のふたり』について。
同じ団地に暮らす幼馴染ふたりの「持ちつ持たれつ」の関係性
自分には自転車で10分くらいのところに仲の良い友人が何人か住んでいて、ふらっとLINEのグループで連絡しあって集まっておいしいものを食べにいったり、最寄り駅で少人数でお茶をしたり、家に余っている食材を持ち寄って、なんでもない夕飯を作って一緒に食べて、その後にTVerやYouTubeでドラマや動画を見て、お互いに負担にならないくらいの時間に帰ったりということをしている。
ゆるくつながっているその同業の友人たちとは、昔から仲は良かったが、コロナ禍に入ったくらいからは、気張って遊ぶ約束をするというよりも、そこまで特別なことがなくともなんとなく頻繁に集まるということが多くなった。これは、どういう心境の変化なのかと考えていた。
9月からNHK BSプレミアムなどでスタートした『団地のふたり』の主人公のノエチ(小泉今日子)と奈津子(小林聡美)もまた、同じ団地に暮らす幼馴染で、夕飯は一人暮らしをしている奈津子の家でふたりで食べることが多い。そこに約束などはない。ノエチは団地につくと、奈津子の家に直行しているのだから。
一話を見ていいなと思ったのは、奈津子がご飯を作ると、ノエチは「食べるー!」とはしゃぎすぎるくらいはしゃいで、おいしいと思っている気持ちを伝える。イラストレーターの奈津子は、仕事は減っていて稼ぎは決してよくないようだが、食事の材料代をノエチに請求している様子はない。しかし、大学で非常勤講師をしているノエチはそのあたりのことをわかっていて、ときどきは奢ってあげたり、兄が青春時代にとっていたフォーク(さだまさしやアリスなど)の楽譜などをフリマに出品して少しでもお礼になるように気遣ったりもしている。
でも、お互いが負担に思うような、高額なお礼をしあったり、特別なことを無理をしてやっているようなことがない。持ちつ持たれつの関係性が自然とできあがっているのだった。
50代のふたりは、かつては結婚したり、パートナーがいたりした時期もあったが、紆余曲折を経て団地に帰ってきたのだった。
彼女たちの他にも、ここに暮らす人たちは、ユニークだ。一話では団地に住む一人暮らしの佐久間絢子(由紀さおり)から頼まれて、網戸を張り替えることになるノエチと奈津子。なんとか見様見真似で網戸を張り替えると、絢子は喜んで、お礼にピザをとり、ポチ袋を渡すのだった。
笑えるのは、網戸を張り替えたことは内密にとお願いしていたにもかかわらず、絢子は人々にノエチと奈津子が網戸を張り替えた話をしてしまい、その噂が独り歩きしてしまう。結果、二人は休日のたびに「網戸の張り替え」を頼まれるようになり、張り直し終わると、必ずと言っていいほど皆、喜々としてピザを取ろうとし、帰りにポチ袋を渡すのだった。値段は書かれていないが、みんな同じような額を包んでいるんじゃないかと思った。
この団地の‟おばちゃん”たちの気持ちが痛いほどわかる。高齢で一人暮らしになると、ピザを取っても全部は食べきれない。同年齢のご婦人たちで集まるときにピザを取っても、少しヘビーすぎる。若い(といっても55歳なのだが)の二人がいるときにとらなければ、ピザをとるタイミングは来ないのだ。それぞれの離れて住む家族が来たら食べられるかもしれないが、孫が来たときは、手料理をふるまいたくなってしまうのではないだろうか。
ピザは、当たり前に食べている人からすれば、なんでもない食べ物かもしれないが、食べきることができない、人数が集まらない、若い人と交流がない、というような高齢のひとりぐらしの‟おばちゃん”たちからすれば、れっきとした‟ハレの日”の食べ物であるのだろう。ドラマではコミカルでなんでもないことのように描いていたが、そこはかとなく寂しさも感じるエピソードだ。
こうしたテーマが選ばれるのは、都会の暮しにコミュニティが生まれにくく、またその必要性が重要視されるようになったからだろう。
昭和30年代から40年代の高度経済成長期とベビーブームが重なって、当時は憧れの住まいであった団地も、今や老朽化し、住んでいる人も高齢化してしまっている。今、団地に焦点を当てた小説やドラマが描かれるということは、自ずと日本の成長期から現在までを振り返り、その問題点をあぶりだすことに繋がってくる。
韓国などでは、団地やマンションを描くドラマや映画が増えているが、その高齢化したコミュニティを描くというよりは、高騰したマンションが権力とつながっているような描写になっている物が多くて、その問題意識の違いが興味深い。
日本では、2022年の1月にテレビ朝日で始まった遊川和彦の脚本・演出の『となりのチカラ』というドラマも、舞台こそ団地ではなくマンションであったが、松本潤演じるマンションに引っ越してきた主人公が、困っている隣人を放っておけず、次第に繋がりやコミュニティが生まれていく様子が描かれていた。
こうしたテーマが選ばれるのは、都会の暮しにコミュニティが生まれにくく、またその必要性が重要視されるようになったからだろう。
『となりのチカラ』のほうは、主人公が男性ということもあり、住人の間に生まれる問題解決に奔走する様子が描かれていたが(男性が問題解決をしたがるということは性別に対する偏見ではあるが、実際にはそのような性別による偏見を自分の中に知らず知らずのうちに取り込み、問題解決に励む男性は存在するだろう)、『団地のふたり』は、問題解決には奔走しない。
とはいえ、結果的には奔走することにはなるのだが、ノエチと奈津子の態度は、一貫してめんどくさいけど、なぜか巻き込まれてしまう……という感じである。しかし、毎回、少し困った多様な登場人物が出ることで、今の社会に存在している、見えにくい人たちに焦点を当てることに成功している。
これは、やはり交差性、つまりインターセクショナリティを描いていると言ってもいいだろう。しかも、主人公のノエチも奈津子も、何者でもない。むしろ、ふたりとも、一度は団地を出て新しい生活をしようとしていたのに、舞い戻ってきてしまった人なのである。
55歳になっても、親世代のおばちゃんたちからは子ども扱いされ、この後も何か団地の中で大きなことを達成することもないだろう。そんな人たちが主人公であるからこそ、より身近な交差性や、「老いていく自分と団地と社会」というものにリアリティが感じられる。
毎回出てくる人々も、のほほんと笑えるエピソードを見せてくれるだけではなく、そこはかとなく日本の問題と無関係ではない。
あるときは、団地で育ったベビーブーマー世代の子どもたちの両親たちが、認知症になってしまうし、あるときは同性のパートナーと暮していた男性が、パートナーに出ていかれながらも、この団地で生きていく決意をする。
心地よい共生の形を模索している姿、共助のあり方を見るのは、励みにもなる
ドラマでは、団地の人々が夏祭りや、ボランティアでの習い事や、朝の太極拳など、ゆるくコミュニケーションをとりながらも、この場所を「終の棲家」にしていくのであろうことが見えている。こんな風に、ゆるく繋がりながら、助け合って生きていけたらいいだろうなと素直に思えるから、キョンキョンや小林聡美演じるノエチと奈津子に、自己を投影してしまったりする人もいることだろう。私のように……。
しかも、このドラマには、配偶者に先立たれて独居の人々も多く、こうであらねばならない家族像というものが、あまり出てこない。出てきたとしても、それが唯一無二の理想像であるとは示されない。そこが見ていて心地よいところだ。
私が近所に住む友人と、ゆるく繋がってご飯を食べたり、テレビを観たりしてまったりと過ごしているのも、そこはかとない老後への不安が共有されているから、徐々にそのような関係性に変わってきたのかもしれない。だからこそ、我々のあいだで、『団地のふたり』は大人気で、お互いの家で観たりもしているし、見ていてほっこりした気分になっている。
つつましく自分たちの老後を少しでもよくしようと、心地よい共生の形を模索している姿、つまり共助のあり方を見るのは、励みにもなる。しかし、こうやって文章を書いているとやっぱり心配になってくるのだ。今は、このような共助の形を個人レベルで模索できているが、政治が公助について考えず、安らかな人々の生活を阻むようなことだけは、ないようにと思わずにいられない。
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text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi edit_Kei Kawaura