男女の関係なく「傷ついた人同士がケアをしあう」ことをまっすぐに描く『夜明けのすべて』
配信サービスに地上波……ドラマや映画が見られる環境と作品数は無数に広がり続けているいま。ここでは、今日見るドラマ・映画に迷った人のために作品をガイドしていきます。今回は映画『夜明けのすべて』について。
パニック障害を持つ山添くんと、PMSに悩まされる藤沢さんの「助け合い」
2月9日から公開が始まり、現在までロングランヒットを続けている『夜明けのすべて』を遅ればせながら見に行った。
中心人物として登場するのは、栗田科学という会社で働く“山添くん”(松村北斗)と先輩の“藤沢さん”(上白石萌音)。
山添くんはパニック障害を持っており、元いた会社(同期や上司の様子を見ると、かなりの大企業だとわかる)を休職し、栗田科学にやってきたのだった。藤沢さんも、月に一度のPMSに悩まされており、前の会社を辞めて、やはり栗田科学に落ち着いていた。
栗田科学は、教育教材を扱う会社で、ぱっと見は家族的。藤沢さんは、いつもほかの社員にお菓子を買ってきて配ったりしているし、お菓子をもらったら、社長自らお茶を入れたりするなど、パワハラなんてありえない職場である。
しかし山添くんは、そんなノリに馴染めず、不愛想でつっけんどん。そんなところに藤沢さんのイライラが募ってしまうこともあったが、ある日、彼が自分と同じ薬を飲んでいることに気付き、少しずつ距離が縮まっていく。
しかし、単純に仲が良くなるわけではない。最初、山添くんは、PMSとパニック障害とで同じ薬を飲んでいるからと言って、同じにしないでほしいという顔をしてしまう(それに気づいて、「病気にもランクがあるか…PMSもまだまだだね」と自嘲する藤沢さんのセリフにくすっとさせられる)が、藤沢さんの絶妙なおせっかいに山添くんは心を開いていく。
会社の人たちのふたりを見る距離感もいい。同年代のふたりが、調子が悪いときに家に送っていったり、忘れ物を届けるような間柄になっても、彼らが恋愛に発展するのではと期待するような顔もしない。
見ていて、そんな会社が存在するのだろうかとも思えるほどのいい会社だが、社長の栗田(光石研)にもまた、過去に弟を突然亡くしたことで今も傷ついていて、そのことが、会社の雰囲気に大きく関わっているように思えた。傷ついた過去があるから、他者の傷つきにも敏感なのだろう。
栗田は、今もグリーフケアのサークルに通っている。そこには山添くんの元の会社の上司・辻本(渋川清彦)も通っていた。
光石研も渋川清彦も、ほかの作品では、人間の裏の部分を隠さないような役を演じることが多い。だから最初、渋川が演じる辻本は、厳しい上司なのかと穿った見方をしていたのだが、まったくその逆で、彼も姉を亡くし、傷ついていた。彼が自分以外の誰かの傷が癒えたときには、自分のことのように喜べる人だとわかるシーンがあり、そのときの表情に、この映画で一番、心が持っていかれてしまった。
最近見た別の映画にも、このようなケアのサークルに主人公が参加している場面が出てきたが、その映画の中では、サークルに対して懐疑的で参加することに意味があるのだろうかというような描写になっていた(そのような描写がいけないというわけではない)。しかし、『夜明けのすべて』では、傷ついた人同士がケアをしあう、助け合うということが、まっすぐに描かれていた。邦画は、人間の嫌な部分をリアリティとして描くものは多い。しかし、日常にある優しさを、ドラマチックにしすぎることなく、さりげなく描ける邦画は少なく感じる。こうした映画がもっと増えればいいのにと思う。
男女の関係なく「ケア」しあえる関係性は存在するか?
この映画には、特に劇的なこともおこらなければ、不穏なフラグも立たない。これを、(主に)海外の人は「何もおこらない映画」と称するだろう。
とはいえ、藤沢さんと山添くんの関係性は静かに変わっていく。特に最初はぶっきらぼうだった山添くんが、男女であるとか、好き嫌いとか、恋愛しているかどうかに関係なく、「人は助け合うことはできる」と語るシーンは忘れられない。
「ドラマや映画の恋愛観」においては、個人的にも関心のあるテーマである。昨今の私は、これまであるべきとされてきた恋愛の形に疑問を持って、恋愛について様々な人に話を聞きに行く対談連載を持っていたが、男女がどちらかの比重が大きくなったりせずに、かつ性別役割分業的なものから距離を置いて「ケア」をしあうことは、なかなか現実的に難しいのではと思うところもあった。
特に、個人主義的で人との距離に気を遣うことの多い日本では、関係性がまだ曖昧なときに、人を助けるということはシンプルではない。男女ならなおさらだ(これは、社会的にケアをするのは女性の役割とされてきたことなどを考えてのことである)。
自分のことを振り返ると、女性同士の些細な助け合い……つまり、この映画にも出てくるように、お菓子をあげるとか、体調の悪いときに家まで送ってあげるとか、そういうことは普段からやっているし、なにかあったときには、今度は自分も返してあげないとなと考えたりしている。年齢を重ねるごとに、なおさら大事だと思い始めた。
しかし、そこに「男女」が入ってくると、この当たり前にしていた相互の些細な「ケア」というものが、すごく難しくなると感じることがあった。
例えば、近所に飲みに行ったり、お茶をしに行ったりできるくらいの男性の友達がいたとして、その友達がちょっと風邪をひいたり、外に出られないような状態になったとき、ドアノブに消化によいものや、水分を補給できるものの入った買い物袋をかけておいてあげるような、些細な「ケア」は、やりにくいなと思うことはあった。実際にそういうことを申し出たら、何か意識されて断られたこともあったからだ。
こちらにもそんな気はなく、もちろんあちらにもそんな気がなかったのだと思うが、「ケア」は恋愛感情とまでいわずとも、例えば家族(特にお母さん的なもの)を思わせるものがあり、よほどの関係性でないと、受けられないものとして警戒されたのではないかと思った。もし受け入れられていたとしても、それは恋愛感情のこもったケアとして受け止められていたのかもしれない。
もちろん、そんな経験がたくさんあるわけではないが、もしも私が寝込んで動けなくなったとして、近所の同年代の女性同士でドアノブにペットボトルと消化に良い食べ物の入った買い物袋をひっかけて帰るような、そんな些細なケアのコミュニケーションができる男性の顔はあまり思い浮かばないのである。もちろんこれは、私の一例にすぎないのだが。
『夜明けのすべて』の山添くんと藤沢さんは、それがどちらからともなくできる関係性であった。この映画で、ふたりに恋愛関係がないことは重要である。なぜなら、恋愛関係があったら、「人は、性別や年齢やあらゆる属性に関わらず、助け合うことができる」ということが証明できないからだ。
しかし、実際の社会では、人は「誰かの娘だから傷つけてはいけない」とか「魅力を感じるから助けたい」となる事の方が多いように思える。ネットを見れば、性欲のありなしで女性を助けるか助けないかが決まるという言説も見たことがあるし、それがエスカレートすれば、「役に立つ人は助けるけれど、そうでない人は放っておいていい」という優生思想にも結びつきかねないことでもあると思う。
ある人生の中の通過点を誰かと確かに助け合った記憶は、過ぎ去ったとしても、決して悲しいことはない
ふたりの人間が交わり、そして何も起こらなかった(けれど、確実になにかが起こった)この作品だが、この「人は助け合うことができる」というテーマは、タイトルにもなっている『夜明け』や、主人公たちが試みる移動プラネタリウムのナレーションで語られる、天体や宇宙の話にもつながっているのかもしれない。
映画の中でふたりが一生懸命考えたプラネタリウムのナレーションを聞いて、夜明け前の暗闇の絶望感と、その後の夜明けの希望を知っているからこそ、人の弱さに敏感になれるんだろうなと思った。また、宇宙の果てしない時間軸の中では、すべてのことは、通過点であり、人生で誰かと誰かが関わった時間も単なる通過点に過ぎないけれど、ある人生の中の通過点を誰かと確かに助け合った記憶は、過ぎ去ったとしても、決して悲しいことはないと受け取った。
この考えは、実は映画の中のほかの場面でも貫かれているように思う。栗田科学の副社長の住川(久保田磨希)は、息子のダンと同級生が学校の課外授業で行ったビデオ取材の中で、これからやりたいこととして、誰でも仕事ができるような仕組みを作りたいと言っていた。
このセリフを聞いて、誰が仕事をすることになっても、同じようにできるように仕組みを作るということは、その仕事をしている人が、いつ会社を去ってもいいと言っているような気がして、少し寂しい気がするかもしれない。
でも、私はそれでいいのだと思う。会社も誰かの人生の通過点の一つに過ぎず、その場所にいる間は、雇用するということで人を助けることもできるし、そこを去らないといけなくなったら、去ってもいい。一見ドライに見えかねないが、会社のために人をしばりつけるよりも、むしろ温かいことではないか。
栗田科学は、お菓子を分け合ったり、会社終わりにご飯に誘う社員がいたりと、家族的で昔風な雰囲気に見えるが、よくよく見ていると、ガチガチの「家族」のような強固なコミュニティを作りたいというのでもなさそうだ。だからこそ、去っていく人に対して、その先の人生を祝福することができるのだ。
人と人が助け合うということは、一度関わり始めたら一生かけて関わらないといけないとか、ガチガチに凝り固まった強固なものだけが正解のように思われることが多い。そんな思い込みがあるからこそ、このような「ささやかでゆるやかな、一時的な助け合い」を懐疑的に思ったり、嘘くさいと思う人がいるのではないか。
藤沢さんと山添くんの関係性も、一時期を共にした瞬間、確かに二人は助け合った、というその事実だけが残った。それは一瞬のことかもしれないが、ささやかでありながら濃密で幸せなものに見えた。
人生のある通過点で同じ時を過ごし、肩を貸し合い、そしてそれぞれの道に戻っていく。この映画を見てしばらくそんなことを考えたら、まったく作風は似ても似つかないのに、『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のフュリオサとマックスを思い出してしまった。彼らもまた、傷ついていた同士であった。