愛いっぱいの家族になれた。難病の私が“人に頼る勇気”で結婚・出産・育児を叶えるまで
16歳の時。突然、謎の体調不良に襲われた塚本明里さん。
いくつもの病院をまわった末にたどり着いた診断は「筋痛性脳脊髄炎」「線維筋痛症」「脳脊髄液減少症」──3つの病気だった。
それでも塚本さんは、タレントとして活動をスタート。筋痛性脳脊髄炎の患者会「笑顔の花びら集めたい」を発足。プライベートでは、マッチングアプリで出会った人と恋に落ち、結婚。そして2025年には母親になった。
「病気になったからといって、“普通の生活”を諦めたくなかった」
そう語る塚本さんに、結婚や妊娠に踏み出した理由、病気を抱えながら普段どのように育児をしているのか話を聞いた。
つかもと・あかり/1990年、岐阜県可児市出身。2011年、当時、岐阜市の柳ケ瀬商店街のゆるキャラだった「やなな」の広報として、活動を開始。2012年、筋痛性脳脊髄炎を啓発しようと患者会「笑顔の花びら集めたい」を発足。2013年、可児市ふるさと広報大使に。2019年には岐阜県ヘルプマーク普及啓発大使に任命。タレント・モデル・ライフスピーカーとして活動し、各地で病気を啓発する講話に取り組む。Instagram:@akari_tsukamoto
16歳で病気を発症。私の時間は止まってしまった
──ご病気が発症した時のことを教えてください。
「高校2年生のテスト中に、突然体が動かなくなって、担架で保健室まで運ばれました。その日を境に、微熱・首リンパ節の腫れ・頭痛・虚脱・脱力で動けない・震え・全身痛──まるでインフルエンザにかかったような症状が、24時間365日続くようになったんです。
これはおかしいと思って病院に行ったんですけど、検査結果は異常なし。精神科を紹介されることもありました。
一年半後、ようやく9つめの病院で『筋痛性脳脊髄炎』(※1)と『線維筋痛症』(※2)という診断が下りました。それからは、ほぼ毎日ペインクリニックに通って全身40ヶ所に麻酔注射を打ち続けました。
私の病気はどれも研究がまだ進んでおらず、確立された治療法があるわけではありません。患者自身が手探りで見つけていくんですけど、私はなぜか少しずつ薄皮を剥ぐように良くなっていきました」
──現在は、どのくらい通院や治療をされていますか。
「病気が診断された数年後に『脳脊髄液減少症』(※3)という病気も判明し、その治療によって少し病状が改善しました。現在は週2回麻酔注射を打ちに行き、毎日常備薬を服用して過ごしています。
娘のお世話をしたり、トイレやお風呂のときなどには自力で動きますが、全身の痛みや倦怠感、脳脊髄液減少症の症状で一度に30分以上は頭を上げ続けられないので、それ以外の時間は横になって過ごしています。
娘と一緒に外出するときは、夫や母に手伝ってもらいながら、抱っこ紐をしてリクライニング式の車椅子で移動しています」

※1:原因不明の激しい全身倦怠感が長期間(6ヶ月以上)続く病気。慢性疲労症候群とも言われる。
※2:主に原因不明の全身の慢性的な痛み、疲労感、睡眠障害、うつ症状など
※3:脳脊髄液が漏れ出し減少。頭痛、頚部痛、めまい、倦怠感、不眠、記憶障害など様々な症状を引き起こす病気
“普通の生活”を諦めることはしたくなかった
──行きたいところに気軽に行けない生活の中で、恋愛をしようと思ったキッカケは何だったのでしょうか。
「たしかに私は病気になりましたが、“普通の生活”を諦めることはしたくなかった。特に10代後半から20代の頃は、病状がひどくて恋愛や結婚に憧れていたけど、叶いませんでした。
でも30代で少しずつ病状が良くなって、サポートがあれば外出もできるようになったので恋愛にも挑戦してみたいと思うようになったんです。マッチングアプリなら、自分の病気のことも事前に伝えられるし、自分から探すこともできる。だから、まずは始めてみようと思いました」
──実際アプリを使ってどのようにお相手を探したのでしょうか。
「プロフィールに『持病があるので、気になる方はお気軽にお聞きください』と最後に入れ、メッセージでやり取りする中で伝えたり、お会いする前に病気のことを説明するようにしました。
ただ、病名を明かすとお断りされてしまったり、ほとんどの方は連絡が取れなくなったり、ブロックされてしまったり…唯一会えたとしても、1回きりになってしまうのがほとんどでした」
──なかなかいい人に出会えない中でも、マッチングアプリを続けられたんですね。
「私が諦めなかったのは、これだけの病気がある私を“いい”って思ってくれる人がいるとしたら、その人は簡単に見つけられないくらい素晴らしい人だと思ったからです。それが、私の病気の唯一のメリットだと考えていました。
そんな中で、初めて私を外に連れ出してくれてデートしたのが夫でした。当時の彼は41歳。海外も可能性がある転勤族というのもあって、今まで結婚するタイミングがなかったようです」

「人生って、本当に何があるかわかりませんね(笑)
病気を発症したときは“世界は進んでるのに私だけ一人取り残されてる”感覚だったんですけど、彼と出会ってからは『彼に会うために、この苦労があったのかもしれない』と思えるようになってきて。今まで私を苦しめていた病気も、少し肯定できるようになりました」
──あかりさんは当初から「結婚」に憧れがあったとおっしゃっていましたが、不安はありませんでしたか。
「私が病気をせずに、いろんな恋愛経験を積み重ねていたら違っていたかもしれません。
現代の女性が憧れるような“一人で生きるカッコイイ女性”からは、かけ離れているかもしれませんが、私は子どもの頃から思い描いていた“結婚して幸せになる”という夢が心の中にあって。みんなが初めて恋をした時のウキウキした気持ちのまま、結婚したいって素直に思いました。そういう勢いもあって、結婚に踏み出せたのかもしれません。

離れてるからこそ、相手の存在のありがたさを感じる
──ご病気もある中で、妊娠・出産はリスクもあると思います。パートナーの方と子どもについて話し合いを重ねたりはしましたか。
「何度も話をしました。私は子どもが本当に大好きで、親戚の子のお世話をするのも、一緒に遊ぶのも好きだったんです。自分と、自分の好きな人の遺伝子を受け継いで生まれてくる…そんなことって、奇跡みたいじゃないですか。
夫は、私の病気が妊娠や出産に与えるリスクをずっと心配してくれました。『もし子どもができなくても、養子を迎えることを考えてもいいし、夫婦2人で生きていくのもありだよね』と言ってくれて。そういうスタンスでいてくれたからこそ、気持ちを楽に妊活に取り組むことができたんです。
病気もあるので不妊治療は難しいですし、夫は単身赴任で遠距離という状況もあったので、無理せず神様に委ねようという気持ちでいたら、ありがたいことにご縁がありました」

──パートナーの方は転勤族と伺いましたが、現在はどのように暮らしているのでしょうか。
「私と付き合い始めたタイミングで彼が東京転勤になり、現在も夫は東京で単身赴任中。月に2、3回週末に帰ってくる形で結婚生活を送っています。
祖母と両親が住んでいた二世帯住宅の一部を新居として使っていて、普段は実家で家族の手も借りて一緒に子育て。夫が帰ってきた時は2人の新居に一緒に住んで、夫がお料理や家事を全部引き受けてくれています。
転勤に同行すると、私の病院探しがとても大変なんです。ペインクリニックも、線維筋痛症の場合は大きな病院でも断られることがあって、東京で探したときも苦労しました。
会えない日が多いので、毎日動画や写真を送り合い、ビデオ通話もしています。夫は『帰ってきたときに大きくなってて嬉しい』と娘にメロメロです(笑)。
単身赴任で普段離れてるからこそ、相手のありがたさを改めて感じますし、離れてたまに会うからこそ特別に感じられて、こうした生活もいいなと思っています」

──お母さまやご家族と一緒に子育てできるのは心強いですね。
「私が妊活を公表したとき『病気や障害がある人が子どもを産むなんて』『ヤングケアラーにするつもりなのか』『自分のことも自分でできないんだから、迷惑かけないで』といった声を多くいただきました。
でも、病気とか障害があっても『子どもが欲しい』と思うのは、生きてる人間としてごく自然なこと。私自身が健康な体から突然病気になるという経験をしたので、いつ誰がどういう状況になるかわかりません。
なので私は病気を公表して、母に手伝ってもらいながら子育てをしている姿をいろんな人に知ってもらい「こんなやり方もある」「こうすれば一緒に暮らして子育てしていける」ということを伝えていけたらと思っています。批判だけではなく、私のような人たちがどうしたら子育てをしていけるのか、など風通しの良い考えをみんなで共有できる環境がもっとあれば嬉しいですね」
──ご病気に関係なく、子育てにおいて「人に頼ること」は本当に大切だと思います。
「私はむしろ甘える場所や頼る人を増やして、いかに子育てをしやすくするかが大切なことだと思います。
頼られる側も嫌なことばかりじゃなくて、嬉しいことや幸せを感じられる場面もある。私はそれも家族の絆として育まれていくものだと思っているので、感謝の気持ちを持ちながら、両親に頼らせてもらっています。
両親はとても温かい人たちで、娘もじいじ・ばあばにすごくかわいがってもらっていて、こんな愛情に包まれて育つ子は、きっと思いやりのある優しい人になるんじゃないかなと思います」
娘が生まれて、みんながより笑顔に

──周囲に頼ることで、子どもは愛情をたくさん与えられる…とても素敵です。最後に、これから先はどういう家族を作っていきたいですか。
「両親が私を愛情深く育ててくれたように、娘にもいろんな人と関わってもらいながら、愛情をいっぱい受けて、思いやりのある子に育って欲しいと思っています。
ちなみに娘の名前は『希来里 (きらり)』と名付けました。この子が生まれることによって、“希望”が“お里(家族)”にやってくるという意味を込めています。私の名前も“明るい”に“お里(家族)”で『明里(あかり)』なんです。私が生まれたことで家族が明るくなったという意味を込めて名付けてもらったのですが、それを受け継ぎました。
「子は鎹(かすがい)」って言うけれど、娘が生まれてみんなが笑顔になったと思います。
子どもが生まれると自然と子ども中心の生活になって、そこからまた新しい幸せが広がっていくんだなと、実感を噛みしめているところです。夫と私たち家族で、そんな幸せをもっと作っていけるのかと思うと、この先の未来がとても楽しみです。
text_Maori Kudo



















