ドラマ『ラムネ・モンキー』。中年の危機に瀕した3人が噛み締める“罪と罰”と“赦し”

ドラマ『ラムネ・モンキー』。中年の危機に瀕した3人が噛み締める“罪と罰”と“赦し”
ドラマ『ラムネ・モンキー』。中年の危機に瀕した3人が噛み締める“罪と罰”と“赦し”
CULTURE 2026.03.11
配信サービスに地上波……ドラマや映画が見られる環境と作品数は無数に広がり続けているいま。ここでは、今日見るドラマ・映画に迷った人のために作品をガイドしていきます。今回は、就職氷河期世代の3人が主人公の『ラムネ・モンキー』について。

主人公のニックネームにピンときたら、あなたもまた……。

フジテレビで水曜10時に放送のドラマ『ラムネ・モンキー』は、ずばり「中年の危機」を扱った作品と言っていいだろう。

主人公は、多澤物産に勤める吉井雄太=ユン(反町隆史)、映画監督の藤巻肇=チェン(大森南朋)、小さな理容室を営みむ菊原紀介=キンポー(津田健次郎)の三人。中学の同級生だった三人だが、そのときに憧れていた臨時教員の宮下未散=マチルダ(木竜麻生)の白骨死体が見つかったことから再会することになる。

主人公たちは皆51歳。同年代の人ならば、彼らのニックネームが、ユン・ピョウ、ジャッキー・チェン、サモ・ハン・キンポーから来ていることがわかるだろう。マチルダは『ガンダム』のキャラクターだ。

主人公を演じる俳優は、反町が52歳、大森が53歳、津田が54歳。私も同年代なのでわかるが、確かにあの頃、ファーストガンダムと言われていた『機動戦士ガンダム』に夢中であったり、ジャッキー・チェンやユン・ピョウやサモ・ハン・キンポーに憧れたりする同級生も多かった。

チェン、ユン、キンポーは中学生のときには映画研究部に所属しており、カンフー映画『ラムネモンキー 炭酸拳』の製作にあけくれていたのだ。最初、“ラムネモンキー”というタイトルの意味がわからなかったが、ジャッキーの映画は、『スネーキーモンキー 蛇拳』『ドランクモンキー 酔拳』『クレージーモンキー 笑拳』という三部作があったし、「酔拳」を中学生がやろうとすると、お酒を飲んでしまう描写になるから、ラムネに変えたのだった。このタイトルのつけ方はなかなか巧いということがわかった。

もっとも、これは私がもっと後に香港映画が好きになったからこそ理解できたことなのだが、それでも、やっぱり『ガンダム』とジャッキーはその頃の鉄板であった。

ラムネモンキー イラスト

中学時代、思い描いていた自分になれなかった3人の心の行方。

主人公三人にとって、中学校の思い出は楽しいことだけではない。憧れの先生、マチルダは失踪していて、その恐怖からなのだろうか、彼らには肝心のところの記憶がないくらいなのだ。

加えて三人は、51歳の今が順風満帆というわけではない。ユンは多澤物産の営業部長にまで上り詰めていたが、贈賄容疑で逮捕され、今はグループ会社の商品管理部に追いやられているし、妻や娘との関係性もぎくしゃくしていた。

チェンはかねてからの夢であった映画監督にはなったが、こだわりも強く、制作中のドラマを降板させられてしまっていた。アパートで独り暮らしをしており、今はデリバリーサービスの配達員をして凌いでいる。

キンポーは漫画家を目指していたが、母の後を継いで理容院を営んでいる。その母も認知症となり、介護に追われている。

まだまだ体は動くが、若い時に思い描いたような大人になれていない。社会の中で、自尊心を満たせるような立場にもない。そんな彼らだからこそ、マチルダの失踪の謎を追うことに夢中になって、何かアツいものを取り戻したいのだろうと思えて、同年代の筆者としては、どこかぐっとくるものがあった。彼らは、マチルダの謎を追って、いろんな人に会いに行く。

彼らを中学時代に苦しめた張本人もときに出てくる。3話に出てきた元体育教師のジェイソンこと江藤順次(石倉三郎)は、彼らに体罰を与えていて、暴力がやめられなくて教師を辞めさせられた人物だ。入院中の先生の元を訪れると、彼は「ろくな大人にならなかったな」という言葉に始まり、三人の人生はみじめだとわざと酷い言葉を投げかける。

最も関わりが強く暴力を受けていたチェンは、先生のほうがみじめな人生だ、自分たちはまだ50でまだまだこれからだと反論すると、先生は最後の力を振り絞って、チェンの頬を手でひっぱたく。というかその手に力はなく、そっと触れるくらいであったのだが、彼としては渾身の力で叩いているつもりなのだった。続いて、ユンとキンポーも頬を差し出す。

 通常であれば、暴力教師が病に倒れてもまだ50になった生徒の頬を叩こうとするなんて、ありえないと思うのだろう。しかし、50を過ぎた彼らが、「自分たちはまだまだこれからだ」と先生に啖呵を切りつつも、かつて暴力をふるっていた教師がここまで弱ってしまったという事実に触れて、自分の未来を見ているような、そしてまだまだこの人生を簡単に終わらせたくないという複雑な感情が宿ったのだろうと思うと、簡単に批判ができない自分がいた。

この後、回想シーンに入る。映画監督を目指していた中学生のチェンがマチルダから「創作をするってことは、批判も批評もされるってことだよ。それでも作らずに居られない人が創作者になる。君は批評する側にまわりたい?される側になりたい?」と聞かれるのだ。正直言うと、今、私のように批評する側も(というか、批評する側こそが)めちゃめちゃ批判されるということは言っておきたいし、たぶんこのセリフ自体は、無責任に創作物の穴を見つけてあげつらうような意味だろうことも分かっている。

その上で、この暴力教師と三人のやりとりは、その本質をみなければ、簡単に暴力教師を許したというだけに捉えられるのかもしれない。しかし、三人の生きてきた中にも罪はあり、教師と重ねてしまう部分もあるということを思わせるし、このドラマのこの回こそが、「批評も批判もされる」ということに向き合っているのではないかと思われた。

イ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディ』などを見ても、何かのきっかけで男性が暴力の側にいかざるを得ないことがあり、そこには後悔があり、後悔してもなかったことにはできないからこその悲哀が書かれていたが、そんなことをこのドラマを見て思い出してしまった。

教師に対するチェンの態度は、「赦し」のようでもあるし、老いた人間が明日のわが身であるらこその「憐み」だったのかもしれないと。ちなみに、若い女性が、“おばさん”の老いをバカにするが、それは明日のわが身であるのだと諭すシーンが、『逃げるは恥だが役にたつ』にはある。50代のバリキャリ独身の“百合ちゃん”が「今あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かって行く未来でもあるのよ」と若き女性に語り掛けるのである。“百合ちゃん”とチェンたちも同世代である。

しかし、『ラムネモンキー』の三人は過去のすべてを「赦し」ているわけではない。4話では、キンポーが同級生にいじめられていた過去が描かれる。キンポーの母親は、夫亡き後、彼が遺した理容院を切り盛りしていた。しかし、元来、あまり器用ではなく、キンポーの髪を練習台としていつも切っていたが、それを同級生たちは“坊ちゃん刈り”と馬鹿にしていた。

ところが、その主犯格であった同級生の佃将道(東根作寿英)は、今では妻と結婚し、改心して介護の会社を経営している。キンポーの母親の介護に便宜を図るとも言ってくれている。

ただキンポーは許さない。中学時代にカンフーでやり返してみたものも、その後も何度も何度も彼らに殴られていた。そして、50代になっていじめの張本人の佃に会ったとき、普段は優しくて温厚なキンポーが、絶対に許さないと断言するのだった。その様子には、狂気すら感じるほどで、チェンとユンは、そういえば、「やつらと喧嘩したときに、最初に手を出したのは、キンポーだった」ということを思い出す。

就職氷河期世代の叫び。

私は、人間は本質は変わらないにしても、いじめや暴力をしていた人が改心できるならば改心したほうがいいとも思っている。また、過去の過ちを簡単に手放す行動とはみなさないでいいとも思っている。そうじゃないと、世の中に悪い人ばかりになってしまうし、世の中自体がかわらないからだ。しかし、同時に、それを簡単に許せない個人がいるということも、同時にあってもいいとも思っている。

でも実はこのドラマは優しくて、佃が三人を追ってきたときには、チェン、ユン。キンポーの三人が、カンフーのポーズをやってふざけてみせるのだ。このなにげないやりとりに、キンポーは許さなくても、脚本家からいじめた佃への「赦し」はあると思えた。

このドラマを見ていると、社会が未成熟であったせいで割を食っていて、我慢をしてばかりで、抑圧されてきて、いまだにそこから脱することができない就職氷河期の叫びを感じる。しかし、いまどき、氷河期世代のあがきは、冷ややかにみられがちである。このドラマも、もっとその部分が注目されていたら、もっと叩かれることがあったのかもしれない。

けれども、ひっそりとこの世代には、こんな辛さがあったのだという記録にはなっていると感じる。氷河期世代の“中年の危機”を見せるフィクションは、いくつかあったのだろう。でも、私が覚えているのは、TEAM NACSの舞台『悪童』くらいだ。と書いて記憶が蘇ったが、『悪童』も『ラムネモンキー』も脚本は古沢良太なのであった。

text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi

Videos

Pick Up