ドラマ『ちょっとだけエスパー』。コミカルなSF作品かなと思っていたら、歴史改変やトロッコ問題もテーマに……。最終回は?
主人公が再就職した会社の謎社則。「誰かを愛してはいけない」という伏線。
野木亜紀子脚本のドラマ『ちょっとだけエスパー』。初回を見たときは、ちょっとだけ超能力を持った主人公たちが、ちょっとだけ人を助けるコミカルで軽快な作品かと思っていたら、どんどん深い話になってきた。しかも、この作品ほど、過去の野木作品の要素がたくさん感じられるものはないのではないだろうかと思えるくらいだ。
主人公の文太(大泉洋)は、会社をクビになり、家族も失い、ネットカフェで過ごしていた。そんなとき、「ノナマーレ」という会社の求人を見つけ、面接を受けに行く。社長の兆(岡田将生)は最終面接で文太に一粒のカプセルを飲むように促す。おそるおそるそれを飲み込んだ文太は面接に無事合格。錠剤をのむことで、なんらかのちょっとしたエスパーになり、人々を救うことが任務となった。しかし、その任務は、ある人に夜まで傘を持たせるとか、ある人の携帯の充電をゼロにするとか、些細で不可解なものばかり。同僚もいることがわかり、奇妙で楽しいエスパーとしての日々がスタートするのだが……。
文太が社宅に帰ると、そこには四季(宮﨑あおい)がいて、文太のことを夫だと思い込んでいる。最初は、何かの設定だと思っていた文太だが、会社の規則としては、誰かを愛してはいけない「ノン・アマーレ」というものがあったのだった……。

これまでの野木亜紀子作品で扱ってきたテーマを昇華させたかのようなドラマ。
というのが、一話のあらすじなのだが、あとあと見返すと、すでに一話で後につながるエピソードや、野木亜紀子がこれまでに描いてきたものがちりばめられている。
まず、文太の冒頭のシーンでは、ビルの最上階から飛び降りようとしている。これはゴーグルをつけて体験するバーチャルリアリティであって、実際に文太が飛び降りようとしたわけではないのだが、ギリギリまで追い詰められた人が、駅のホームや、地上に吸い込まれそうになる場面は、『獣になれないわたしたち』の主人公の晶(新垣結衣)や、映画『ラストマイル』のショッピングサイトの物流センターでの事故などと重なる。
これは、働く中で理不尽なめにあったり、矛盾にぶちあたり、疲弊してギリギリであることを意味するのだが、一話を見返すと、人の体に触れると心が読み取れるという超能力を得た文太が、待ちゆく人の心を読み取った際にも同様に、街の人たちも「しんどい…」とか「死にたい」「俺以外みんな楽しそう」「殺す殺す…」「なんで生きてんだっけ」という、疲弊した心を持っているというシーンもあるのだ。誰もが疲れているということを思い起こさせる。
また、一話ではちょっとだけコミカルに誰かを救うドラマなのは見えていたが、二話、三話と見ていくと、これは、かつての野木作品にあったテーマを、より昇華しているものだと気づくのである。
特に二話では、画家の千田守、通称センマル(小久保寿人)が絵の贋作を画商に売りに芦ノ湖に行くのを阻止するというミッションにおいては、センマルが犯罪者になる前に、これを文太たちが阻止することに成功する。車に乗って犯人が移動し、それを主人公たちが追うという構造は、松下洸平が出演したときの『MIU404』の二話「切なる願い」を思い出す。彼はパワハラをした上司を許せずに殺人を犯し、老夫婦を人質に車で移動していたのだった。犯罪はすでに起こっており、未然に防げげずに連行されるシーンは、「救えない」悲しさを感じさせるエピソードになっていた。『ちょっとだけ』の二話では、センマルの犯罪は防げるのだが、その後に事故にあってしまう……。
何かを未然に防ぐことは、その後の“あったかもしれない未来”を閉ざすことでもある。
しかし、この二話を見たことで、野木さんは、この『ちょっとだけエスパー』で、未然に何かを救う話をやろうとしているのかと気付くことができた。
これまで、『アンナチュラル』や『MIU404』で野木は、救えなかった悲しみを描いてきた。なぜなら『アンナチュラル』は、不自然死をした人がなぜそのように死に至ったのかを解剖によってつきとめるという話だし、『MIU404』では、警視庁機動捜査隊の刑事が、「誰かが最悪の事態になる前に止められる良い仕事」をするドラマであるからだ。しかし、機動捜査隊にも止められなかった事件はたくさんあり、苦い気持ちを抱いて生きている。
この『MIU404』で印象的だったのが、物事にはピタゴラスイッチのように、さまざまな分岐点があり、その分岐点で何を選ぶかで、後の人生が変わってしまうというシーンである。
私は、この分岐点で人が何を選ぶか、そしてそのときに誰と出会うことで救われるかというテーマに惹かれ、拙著『あらがうドラマ「わたし」とつながる物語』の中でも「出会いと分岐点」と言うテーマで、『MIU404』について取り上げたほどだ。
そして、今回の『ちょっとだけエスパー』にもそのようなテーマがあるし、セリフとしても、社長の兆が、「分岐点」や「ジャンクション」について話すシーンがあるのだ。「ある場所で起こった出来事が他の出来事に結びつき、複雑に絡み合って伸びていく」「過去から現在、そして未来を形作る」と。「分岐点」で何を選ぶのかで未来が変わっていく、しかしそのことで歴史改変となってはいけないということが本作では関わってくる。
物語が進むにつれて、実はノナマーレの社長の兆の秘密が明らかになる。それは、文太のことを夫だと思いこんでいた四季が、実は兆の妻であったこと、兆は未来からやってきており、未来ではなんらかの事故で四季が亡くなる運命にあること。10年後に死ぬ四季を救うために、1000万人の命と引き換えに、一万人を救おうとし、そのために文太たちにカプセルを飲ませ、世界を救う任務を背負われていることだ。兆は、愛する四季には、間違ったジャンクションを通らないようにと切に願う……。
文太たちはノナマーレのエスパーに選ばれ、また「ノン・アマーレ」つまり、人を愛してはいけないという規則を文太たちに従わせようとするが、その理由は、文太たちは、失敗して死んでも仕方がない状態にあり、それは兆からすると、死んでもいい命、つまり誰かを愛する資格もない人だと捉えていたのだ。
愛する人を含む1万人の奪われたはずの命を救い、1000万人の助かったはずの命を奪う、そのために歴史を改変することは、「トロッコ問題」などにもつながるものである。また、経営者や権力者、能力者が、必要な命と、いらない命を選択することは、命の優先順位をつけるという恐ろしいことでもある。それが「愛」の名のもとに行われるとしたら……。
実は、さきほども書いた拙著『あらがうドラマ』では、『アンメット ある脳外科医の日記』(2024年)や『MIU404』などを例に挙げ、人を救える/救えないの分岐点や、すべてを救うことはできないのかというジレンマを書いたドラマが近年増えているということを書いている。本には書いていないが、『新宿野戦病院』にも同じテーマがあった。その背景には、新型コロナのまん延により命を落とした人々への目線も関係があっただろう。
そしてもう一つ。野木亜紀子と大泉洋のコンビで映画『アイアムアヒーロー』(2015年)がある。この作品では、大泉演じる主人公のヒロイズムについて書いていたのだが、彼が世界を救って充足感を感じながらも、ヒロイズムに溺れない結末が個人的には好きだった。『ちょっとだけエスパー』の文太やほかのエスパーたちも、兆によってヒロイズムを刺激され、人を救う任務に奔走しているが、彼らはどんな境地に至るのか。
12月16日に放送される最終話では、そのようなテーマがどのように結実するのかや、『MIU404』や『ラストマイル』を経ての、「分岐点」や「ジャンクション」に関しての、ひとつの答えが描かれているのではないだろうか。
text_Michiyo Nishimori illustration_Natsuki Kurachi

















