おひとり様推奨!家父長制を撃つ緊迫のスリラー。アカデミー賞候補映画『聖なるイチジクの種』の見どころ
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今作がおひとり様映画におすすめな理由
社会の変革を望む作り手たちの意志が詰まった覚悟の一作。示唆に富んだ物語が意味するものをじっくり咀嚼するためにも、まずはおひとり様で味わいたい。
2022年9月、女性は公共の場でヒジャブ(頭髪を覆い隠す布)の着用が義務付けられているイランである事件が起こった。適切にヒジャブを着用していなかったとして、22歳のマフサ·アミニが道徳警察に逮捕され、勾留中に死亡したのだ。この出来事で国民は蜂起し、女性を抑圧する体制に抗議する「女性·命·自由」運動が発生。その様子はソーシャルメディアを介して世界中に発信され、国の垣根を超えたムーブメントへと発展していった。
そして2024年、世界有数の検閲国家として知られているイランで、その運動を題材に鋭い体制批判が込められた映画が密かに製作された。それが2月14日に日本公開を迎える『聖なるイチジクの種』。本作がカンヌ国際映画祭でお披露目される直前、懲役8年、鞭打ち、財産没収の実刑判決を受けた監督のモハマド·ラスロフは、パスポートもないまま28日かけてイランを脱出したという。そんな決死の覚悟で製作された本作は、世界で賞賛を浴び第97回アカデミー賞の国際長編映画賞にもノミネート。不条理なイラン政府に対する国民の怒りを、ある一家の寓話を介して現在進行形で世界中に拡散している。
女性の自由を訴える反政府デモで揺れるイラン。判事が審判を下す際の調査官として働くイマンは、20年もの勤勉な労働態度が認められ予審判事に昇進する。愛する妻ナジメと2人の娘レズワン、サナは祝福するが、当初は誇らしげだったイマンは日に日に沈鬱な表情を浮かべるようになっていく。実は彼の仕事は、反政府デモで逮捕された人々を裁くための起訴状を政府の指示通りに捏造することだったのだ。良心の呵責に苦しみながらも仕事をこなすイマンに、不当な刑罰を課され怒りを募らせる民衆から身を守るための銃が政府から支給される。
国にも夫にも従順なナジメに対し、レズワンとサナはソーシャルメディアで情報を得て、政府の理不尽かつ横暴な態度に疑問を持つようになっていく。それは罪のないレズワンの親友が犠牲になったことで決定的に。考え方の違いで家族内に軋轢が生じ始めたある日、家にあったはずの銃が忽然と消え失せる。当初はイマンの不注意による紛失かと思われたが、次第に妻と娘たちに向けられる容疑。イマンは疑心暗鬼に苛まれ、やがて「平穏だった家庭」は予期せぬかたちで狂い始めていく……。
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タイトルや題材の印象から硬派で静的な印象を受けるかもしれないが、まずは『聖なるイチジクの種』がエンターテイメントとして圧倒的に優れているということを述べておきたい。本作はイラン政府に対する痛烈な批判を、動的で息もつかせぬ高濃度スリラーとして見事に昇華しているのだ。
主人公のイマンという男は長年政府に忠誠を誓いながらも、仕事の正しさに確信が持てず少しずつ焦燥していく。この人物像はラスロフ監督が刑務収監中に出会った、自死をも考えるほど職務に追い詰められていた職員から着想を得たという。だが当初は体制に従いながらも良心の呵責に苦しんでいたイマンは、追い詰められた果てに嫌疑していた体制と同化する。最も小さな社会である家族のなかで、イマンにより奪われていく妻や娘の権利や自由。その姿は家父長制が根付き、社会全体で女性を抑圧しようとするイラン政府の相貌と符合する(イランによく似たイマンという名も意図的なのだろうか)。
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イマン一家をイラン社会に擬えて、根深い家父長制やその理不尽さ、暴力性を浮き彫りにしていく本作においては、あらゆる要素がシンボリックに機能する。たとえばキーアイテムである銃が表すのは「権力」。始めは銃に酔いしれて妻に自慢していたイマンだが、やがてその重圧に押しつぶされそうになる。しかしいざ銃が紛失すると、イマンは狼狽え女性たちを無理矢理に屈従させようとする。平等と公平を推し進めるなかで自身の特権が危ぶまれた男性が、女性やマイノリティを抑圧するというのはイランに限らずよく聞く話だ。劇中でイマンや体制派の人間が女性を何度も「座らせる」という行為も非常に象徴的である。
しかしイラン政府の暴挙を許さぬ若者たちが中心となって「女性·命·自由」運動を展開したように、この物語の女性たちも皆がただ従順にイマンに従うわけではない。妻ナジメと姉レズワン、妹サナの存在は、イラン社会における世代の異なる女性たちを表象する。反政府デモを暴動として吹聴する国営放送を鵜呑みにするナジメに対し、レズワンとサナはソーシャルメディアを通じて、テレビで報道されない国家権力の弾圧を知る。このときに流れる生々しい暴力の映像の数々は、実際の反政府デモで撮られた真実の記録だ。いずれもかなりショッキングな内容である。BBCの報道によれば「女性·命·自由」運動で、最多551人の抗議者が治安部隊によって殺害されているという。その模様を目の当たりにしたレズワンとサナは、政府こそが正義であるというイマンの主張に抗うことを選ぶのだ。
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やがて「女性·命·自由」運動が拡大するなかで、民衆の怒りがデモ逮捕者に罪を着せるイマンに向いたとき、劇中のトーンは一気に転調しクライマックスへと加速していく。きっと本作を観始めたときには想像もしていなかった映画的興奮に包まれていることだろう。実世界の理不尽な出来事を反映し、変革を願う痛切なメッセージを込めながら、これほどエンターテイメント性に優れた逸品をつくりあげたラスロフ監督の手腕は見事という他ない。本作の製作を最後に祖国を脱出した監督だけなく、現在イランで尋問や裁判を受けているというキャスト·クルーの覚悟が詰まった『聖なるイチジクの種』。その思いが一人でも多くに届くことを願うばかり。
観終わったあとの興奮を共有したくなる映画であるけれど、この示唆に富んだ物語が意味するものをじっくり咀嚼するためにも、まずはひとりで鑑賞することをおすすめしたい。
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1988年、奈良県生まれのライター。主に映画の批評記事やインタビューを執筆しており、劇場プログラムやCINRA、月刊MOEなど様々な媒体に寄稿。旅行や音楽コラムも執筆するほか、トークイベントやJ-WAVE「PEOPLE’S ROASTERY」に出演するなど活動は多岐にわたる。
公開情報
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『聖なるイチジクの種』
公開:2月14(金)TOHOシネマズ シャンテほか全国公開
©️Films Boutique
監督·脚本:モハマド·ラスロフ カンヌ国際映画祭ある視点部門【脚本賞】『ぶれない男』(17)、ベルリン国際映画祭【金熊賞】『悪は存在せず』(20)
出演:ミシャク·ザラ、ソヘイラ·ゴレスターニ、マフサ·ロスタミ、セターレ·マレキ
text_ISO edit_Kei Kawaura