あなたのヴァギナはだれのもの? 戸田真琴さんが映画『哀れなるものたち』から読み解く「女性器」の神話
第81回ゴールデングローブ賞で、作品賞(ミュージカル・コメディ部門)、主演女優賞(ミュージカル・コメディ部門)を受賞。第96回アカデミー賞では作品賞、監督賞、主演女優賞、助演男優賞含め11部門でノミネートを果たしたヨルゴス・ランティモス監督作『哀れなるものたち』。エマ・ストーン演じるベラの未知なる世界への冒険譚と呼べる本作は、フェミニズムを見つめ直す映画でもある。元AV女優で、現在は文筆家・映像作家として活躍する戸田真琴さんは本作をどう捉えたのか。
姑息でありふれたすべてを否定する
ヨルゴス・ランティモスの『哀れなるものたち』は、改造人間の物語だ。自死した女性に胎児の脳を移植して生まれ直した一人の女性の映画でありながら、同時に知性と社会学の映画で、まったくあたらしい冒険映画で、“脚のあいだにあるもの”についての映画であり、ミソジニーぶん殴り映画でもある。これを聞いて観てみたくなったあなたは、今すぐ映画館へ行って欲しい。これを聞いて縮み上がったあなたは、今こそ映画館へ行くといい。もしあなたがこの映画を観て、怒りや苛立ちや困惑を覚えたならば、それは改善のチャンスだ。
ベラは言う。「世界を知り、改善する。」この言葉に象徴される、知と進歩の映画として、2024年に強烈な最新作がやってきた。
ベラと3人の男たち
ベラを改造したマッドサイエンティストのゴッドウィンを父親代わりに、彼の優秀な助手マックスからも寵愛を受け、きれいに着飾られ、外界の危険から守られながら、ベラは成長していく。
美しい成人女性の肉体と、急速に成長していく無垢な自我を併せ持つベラは、男性たちにとって魅力的なのだろう。ゴッドは、マックスとベラに結婚をすすめる。二人の間には確かに絆があるし、マックスは誠実ですばらしい男性だ。ある意味では幸福と言える状況だけれど、観ている者は違和感を覚えなくてはならない。この結婚の約束は、ベラのいない場で提案され、「てっきりベラを愛人にするために育てているんだと思っていました」「ということは、二人は性交渉をしていない?」という確認の会話とともに決まったものなのだから。
人として善良であるように見える(いや、間違いなくある角度から見れば善人だろう)二人も、当然のように、女性の性経験の有無を重要視し、それを用いて所有権の在り処を探り合う。
物語中盤では、放蕩者の弁護士・ダンカンが現れ、ベラに自由と旅への憧憬を与える。外の世界への好奇心に満ちたベラは、ダンカンと性的快楽に耽りながら自由を謳歌するが、ベラのとめどない知への欲求を起点に二人の関係性はねじれていく。
彼女を創造し知性と命の時間を与えたゴッド。誠実さと寛大さを有し安全な日々を持続させるマックス。そして、奔放さをもって閉じられた世界を破壊するダンカン。それぞれが人生や愛に対する別々の価値観を持つ魅力的なキャラクターながらも、徐々につまらないものに見えていくという構成は、シンプルに強烈だった。だってそれは、人生で我々が何度もこの目で見てきたものだから。
ベラの周りの男たちは、彼女に興味を持ち、愛着を感じ、その愛着を愛と勘違いし、愛という名のもとに束縛を行使しようとする。彼女の魅力に魅入られたのは男たちのほうなのに、絶え間なく知識を吸収し、世界を探求していく彼女がついに手に負えなくなると、「自由」という概念に彼女を奪われることを恐れ、取り乱していく。愛のふりをした独占欲は、支配欲へとスライドし、彼女の自由と成長を拒むのだ。
あなたのヴァギナはだれのもの?
『バービー』が非常に優れたフェミニズム映画だったことは記憶に新しいが、ジェンダーをめぐる構造をわかりやすく説明してくれる前者に対し、『哀れなるものたち』はより感覚的に、自らの身体をもって、もっと深く、もっと広く、能動的に駆け巡る女性の姿を見せてくれる。バービーが婦人科へ行くラストシーンにもしも続きがあるとしたら、それはヴァギナに関する物語だろう。
身体の真ん中に鎮座し、“自分を幸せにできる”機能をもった、しかし単なる臓器のひとつである“脚のあいだにあるもの”。それは彼女の持ち物であるはずなのに、男たちはまるで誰かに所有されることが前提であるかのように、ヴァギナの所有権を気にかけ、使用済みか未使用か、頻度や使用方法までを、本人以上に気にし続ける。そうした価値観が招く現実的な事象の数々に私は日々怒り、呆れているが、それは性をめぐる加害に対してのみではない。皆、ちょっと、ヴァギナに関わる話になると、あまりにも冷静さを欠き、自他の境界を失ってはいないか?と。
物語中盤、ベラは娼婦として働く。性産業は安全に行うのがとても困難な職種で、それはベラの指摘のとおり、「女性側に拒否権がない」非対称性によって引き起こされている。そしてそんなベラに対し、風俗店のオーナーの女性はこう答える。「あなたが嫌がるのを喜ぶ男もいる。最悪だけど、良いビジネスになる」。
ビジネスになるということは、これがある程度一般化された価値観だということだ。だが、特定の属性の人の安全を脅かす希望など、本来は許されるべきじゃない。ヴァギナは、危険とともにこうした欲望を受け入れることによって、ある意味では聖母化され、神聖視されてきたのだと思う。同時に、ヴァギナは、表立って語ることを制限され、タブー視され、時に蔑まれてきた臓器だ。
彼らはそれを支配することに熱心だが、決してそうだとは言わない。支配しやすいという視点から処女性を賛美し、性に奔放な女性を蔑み、女性の性欲を表向き存在しないものとして扱ってきたこの男性中心社会の価値観は、その臓器がそもそも誰のものであるのか、という当たり前の事実を忘れている。
外の世界に触れても、人は穢れない
自由はすばらしいが、この世は危険だ。極論、加害欲のある人たちが自身の抑制を学ばず擁護されているこんな世界では、外に出ることはすなわち、レイプされる可能性を増やすことである。私はどこかで、そう思っている。それが事実だ、とも思っている。
それでも、外に出る。ベラは劇中でレイプこそされないものの、娼館で働きながら精神的に何度も踏みにじられることになる。それはまぎれもなくヴァギナをモノ化する者たちからの加害である。だがしかし、それでも相手を人間として見ようとすること、コミュニケーションを試みること、他者のあり方を学ぶこと、工夫を凝らすことをやめない。我々はみんな、死ぬ確率を上げながら外へ出て、加害される確率を上げながら他者と言葉を交わし、もっと悲惨なことを知ってしまう確率を上げながら物事を学び、屈辱を味わう可能性を上げながら愛を求める。
ベラは、自分のヴァギナを自分のものと解りながら前のめりに世界を探求する、新しい時代の(きっとこれまでの時代にも、記録に残っていなくとも、数々のこんな冒険が生まれては消えていっただろう)主人公である。
ああ、愛しているわけでもない男と何十回セックスしてもなお、芯から清純な女の映画が見たかった。これで証明できるだろう。フィクションで提示される清純さが、性経験の有無や抑圧への順応性ならば、それは明確に誤りなのだ。
ベラは汚れない。清純という単語を見てチクリと胸の傷んだあなたも、本当は決して汚れてなどいない。なぜなら、循環しているから。ベラは思考をめぐらせ、新しいものを知り、古いものを検証し、自らの内部と世界の有り様を掘り下げ、様々な角度から捉え直し、常に換気をし、不純物をろ過し、フィルターに引っかかった汚れさえ分析し、そして知ったことを明日に活かしていく。精神の手入れを怠らなければ、人は決して汚れることはない。
我々は未熟で、そして同時に完全である
「心が憎しみで腐ってしまう」。外へ行くことをゴッドが許可しないとき、ベラはこう言った。心を腐らせずに生きていけるやり方を、ベラは探し続ける。
物語終盤、ついに心の完全に腐りきった人物が登場する。彼は女性の自由と快楽を憎む。非論理的な完全悪を目の当たりにしたベラの思考と、その後下されるある決心には、見たことのない、だけれどずっと見たかった、最高の答えが宿っていた。
我々は未熟で、そして同時にすでに完全である。世界を知ることは、あなたが本来完全であったと知っていくこと。あなたがそう思えていないとしたら、それを仕組んでいるなにかがあるということだ。それはあなたが生まれるずっと前から社会に充満し、五感のすべてをもって微量ずつ注入されてきた毒のような価値観だ。あなたを育てた親や、信頼する友人や、やさしい恋人さえそこに加担していることがある。我々は社会によって、誰かの都合のために改造されてしまった。だが、まだ生きている。自らの手でそれを最新版へと、壊して、弄って、作り変えることができる。
世界がこうなんだから、この世界が求めるあり方をなぞって生きていったほうが楽だよと、賢いふりした誰かが言うだろう。実際それで得をしている人も目につくだろう。彼らが幸福そうに見えるだろう。しかし、自由を超える悦楽などないと私は信じる。そして、自身の弱さの責任を他者の自由を奪うことで精算しようとする、姑息でありふれたすべてを否定する。
少しずつでも、何が自分を縛っているのか、それはどうしてそうなったのか、調べて、考えて、策を練ろう。世界中に、あらゆる歴史と学問の中に、芸術の中に、友との対話の中に、そしてこの映画のように、あなたの味方は、すでにたくさんいる。
Information
『哀れなるものたち』
全国公開中
HP:https://www.searchlightpictures.jp/movies/poorthings
配給:ウォルト・ディズニー・ジャパン
【R18+】18歳未満の方は、ご覧になれません。