女性だって加害することがある。だからフェミニズムが苦手だという論理について考えたこと|松田青子エッセイ

女性だって加害することがある。だからフェミニズムが苦手だという論理について考えたこと|松田青子エッセイ
自分の目で、世界を見たい Vol.11
女性だって加害することがある。だからフェミニズムが苦手だという論理について考えたこと|松田青子エッセイ
LEARN 2025.10.01
この社会で“当たり前”とされていること。制度や価値観、ブーム、表現にいたるまで、それって本当は“当たり前”なんかじゃなくって、時代や場所、文化…少しでも何かが違えば、きっと存在しなかった。情報が溢れ、強い言葉が支持を集めやすい今だからこそ、少し立ち止まって、それって本当? 誰かの小さな声を押し潰してない? 自分の心の声を無視していない? そんな視点で、世界を見ていきたい。本連載では、作家・翻訳家の松田青子さんが、日常の出来事を掬い上げ、丁寧に分解していきます。第11回は「女性だって加害しているじゃないか」の論理に見るフェミニズム批判の“飛躍”について、です。

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松田青子
松田青子
作家・翻訳家

まつだ・あおこ/『おばちゃんたちのいるところ』がTIME誌の2020年の小説ベスト10に選出され、世界幻想文学大賞や日伊ことばの架け橋賞などを受賞。その他の著書に、小説『持続可能な魂の利用』『女が死ぬ』『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』(いずれも中央公論新社)、エッセイ『お砂糖ひとさじで』(PHP研究所)『自分で名付ける』(集英社文庫)など。

女性もセクハラするし、いがみ合うからフェミニズムは信じられない?

2013年、私のデビュー小説『スタッキング可能』が刊行されたあと、出版社でインタビューを受けていたら、社内の女性編集者さんが近づいてきて、「『スタッキング可能』を読んで、私のまわりの女性たちが喜んでいます。みんなあの本はなんなんだと私に連絡してくれるんです!」と伝えてくれた。フェミニズムやジェンダーにまつわる本を編集していた彼女は、社内会議で『スタッキング可能』がプレゼンされたとき、「これはフェミニズム文学じゃないか! なぜそこに触れないんだ!」と内心憤っていたそうだ。

当時、私は自分の目に映る世界の不条理を言葉にするのに必死だったので、自分が書いているものがフェミニズムかどうかは考えていなかった。本が出て、読んでくれた人がそう言ってくれて、喜んでくれたことが本当に嬉しかった。それからも、特に「フェミニズム小説を書くぞ!」と意気込んでいるわけではないのだけれど、相変わらず自分の目から見た世界の不思議を書いている。

自然と、フェミニズムやジェンダーなどにまつわる仕事の依頼が多くなる。本の刊行時に取材してくださる際も、そういった質問がよく出る。今年は2025年なので、12年の間に社会の変化を感じることももちろんたくさんあった。同時に、フェミニズムなどに関連することに対して、良くも悪くも、過剰反応する人がわりと常にいることにも、そのなかで気づかされてきた。

一つの例だと、新刊に関連したインタビューで、男性が女性に行いがちなステレオタイプな言動について私が話しているときに、男性ライターさんが、

「でもそれ女性もやりますよね」

と言ったりする。話を引き出そうとして言葉を挟むというよりは、言わずにはいられない様子で。

女性が男性にセクハラをするのを目の当たりにして、フェミニズムに苦手意識があるという女性の話も聞いたこともある。他にも何かにつけ、女性も加害するから、女性もいがみ合うからフェミニズムは信じられない、成立しない、といった言説を、日常的にいろいろなバージョンで目にする。

そうしたとき、私がまず思うのは、

「それはそうだろう」

の一言に尽きる。

松田青子さんのエッセイ

フェミニズムについての批判的な語りに、なぜ極端な飛躍が多いのか?

セクハラやあらゆる加害、暴力はこの世から撲滅したいものだ。その大前提のうえで書くけれど、女性にもあらゆる女性がおり、一人一人違う人なので、どういったこともあり得てしまう。間違いを起こさない女性はこの世にいない。常に機嫌のいい女性もいない。嫌な女性だって、気が合わない女性だってたくさんいる。

私自身もこれまでにいろいろな目に遭ったことがあるが、「女性も加害するからフェミニズムは〜」といったロジックはやはり私には違和感がある。思考が飛躍しすぎだからだ。

たとえば、日々のニュースを見ていて、人は泥棒をするし、あらゆる加害を行うからヒューマニティは信じられない、成立しない、と急に人類全体をまとめて考える人はあまりいないだろう。一つの事件の犯人に全人類を代表させず、その人個人の人間性に問題があると思うのでは?

なのに、なぜかフェミニズムに関しては、極端な飛躍が起こってしまう。

フェミニズムは別に、女性優位な世界や、すべてにおいて清廉潔白で、不和が生じない女性たちの世界をつくりたいわけではなく、歴史上、長い間続いてきた、ある属性と属性の間にある不均衡を改善するともっといい社会になるよ、という至極単純な事実のことだと私は思っている(そして属性は複合的なもので、男女間のことだけに限らない。気になった方は「インターセクショナリティ」という言葉を調べてみてほしい)。そう考えてみると、「女性も加害するからフェミニズムは〜」といったロジックは、ちょっと距離感を詰めすぎではないだろうか。

#Me Too運動など、フェミニズムにまつわるムーブメントが盛り上がると、「Not All Men(すべての男性が加害者ではない)」というハッシュタグもSNSで話題になる。これについても、

「それはそうだろう」

の、一言である。SNSなどでムーブメントに参加する女性たちも、別にすべての男性が加害者だなんて思っていないはずだ。けれど、個人的な、そして社会的な経験の蓄積によって、目をつぶることができない傾向がある場合、大きな「」に括って、語らないといけないこともある。けれど、その「」は同時に、その属性のすべての人を意味しない。

男性が女性にマウンティングをしがちな現象について書き、大きな話題になったレベッカ・ソルニット『説教したがる男たち』の日本版の帯には、「殺人犯の90パーセントは男性」と書かれている。このエッセイ集のなかでは、女性たちが直面する暴力の根本的な原因がデータとしてはっきりしているのに、直視されない社会構造についても書かれている。

蓄積されてきた事実は直視しつつ、一人の人にその属性を代表させずに考え続けることが大切なのではないかと私は思っている(行いによっては、一人の人のせいで全世界への信頼を失うことだってもちろんあるだろう)。

松田青子さんのエッセイ

いったん「それはそうだろう」と思うところから考え始めてみる。

私は一度、手を動かすこともできないほど満員の夜の女性専用車両で、前にいた女性のロングヘアーの髪が顔に当たり続けるのがかゆくて我慢ができず、思わず少し体を動かしたら、当のロングヘアーの女性と、私の隣にいた女性に睨まれたことがあるが、だからといって、女性は意地悪だからフェミニズムは信じられない、とはならない。

多少しんみりはしたが、そりゃ事情もわからず、仕事帰りでくたくたの満員電車で、隣の人がもぞもぞ動いたら、やめろやそれ、ともなるだろう。そういうことをいちいちフェミニズムや女性間の関係のむずかしさなどに直結させて、失望したり、女性全体への信頼を失ったりしなくてもいいんじゃないか。

text_Aoko Matsuda illustration_Hashimotochan

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