冷やされ忘れたマヨネーズ#01胸がいっぱい|小原 晩エッセイ
#01胸がいっぱい
これまでの人生において、いわゆる「胸がいっぱいで、ものが喉を通らない」ということは一度もなかった。
けれどもそれは突然だった。
人生は、どういうわけか、こちらの都合など関係なく、発光する。
そのひとの背中を追って、わたしはラーメン屋に入った。そのひとがねぎを大盛りにしたから、わたしも真似をして、ねぎを大盛りにした。出てきたラーメンを前にして、隣に座ったそのひとにも聞こえないほど小さな声で「すみません、これだけ、あの、思い出に」と写真を一枚撮った。
そして、ひとくち。すする。すするが、どこにも落ちない。のどに引っかかる。おや、おなかがいっぱいだ。ラーメンひとくちで満腹なんて、ありえない。わたしはそんな人間ではない。わたしの父はラーメン屋さんで、わたしは麺とともに育った。麺をすすって、ここまで生きてきた。どんなにくるしくとも、ラーメンだけは、いつだって飲みこめた。それがわたしという人間であったのに。よりによって、その日、そのとき、裏切った。自分の身体が、裏切った。はじめは無視した。気づかないふりで麺をすする。しかし、ばれていた。「無理しなくていいですよ、残してください」ひどくやさしく言われた。いやいやいやいやと、うまく笑おうとしたが、笑えなかった。口角ばかりがひくひくふるえて、麺は喉にひっかかったまま、どうにもこうにも下りてゆかない。ついに、残してしまった。父の名にかけて、決してしてはならない裏切りを、わたしはした。
そのひとは、わたしを責めなかった。何も言わなかった。まるで、何も起きていないかのように、無風の顔でいた。
帰り道のタクシーで、翌朝の布団の中で、三日後の交差点で、シャワーのお湯を顔面に受けているときに、冷めたホットコーヒーの苦みを舌先に感じたときに、好きなひとの腕のなかにいるときに――残したラーメンのことを思い出しては、叫び出したくなった。
ようするに、わたしは胸がいっぱいで、ラーメンが喉を通らなかった。胸がいっぱいだと、お腹もいっぱいになるのだ。物理的に。ほんとうに。
けれども、わたしは、あのやさしさに甘えず、ラーメンを食べきるべきだった。このきもちは、完食によってまず証明すべきだった。吐き気がしても、涙ぐんでも、食べきるべきだったのだ。
現実、できなかった。できなかった以上、それは、ずっとできなかったこととして残る。わたしは永遠に、ラーメンを食べきることのできなかった人間として、生きていく。それでも、あの日のわたしは、胸がいっぱいだったのだと――たったそれだけのことを、わかってほしくなる。わかってもらえなくてもいいとは思えない。もはや、あの日、ラーメンを残したという事実そのものによって、きもちを証明しようとしている気配すらある。わたしの甘ったれた考え方は、たぶん、これから先も簡単には治らない。言い訳と後悔。ふたつを材料にして、この文章は進行する。言い訳がつきて、後悔にも飽きがきて、そろそろ終わりにしようと思う。湯気の立たないどんぶりが、ものも言わずに冷えていく。

おばら・ばん 1996年、東京都生まれ。作家。2022年に自費出版でエッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』(のちに商業出版)を刊行。その他の著書に『これが生活なのかしらん』。
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