『完・羽田道中膝栗毛』| 「山崎怜奈の『言葉のおすそわけ』」第73回
まもなくミュンヘンに到着していたはずの時間、私は羽田からの振替便を待ちながら、隣駅の蒲田で夜を明かしていた。そして、普通に帰宅しようとしていた。前回の連載で書いた通り、道すがら人の温かさに触れ、その足で偶然入った洋食屋さんで信じられないご縁（お世話になっているスタッフさんのご実家のお店でした）に恵まれ、生姜焼きと焼酎の水割りをご馳走になってしまった。もうこれ以上の休暇はどこに行ったってないのではないか、そう思ってしまったのだ。
だが落ち着いて考えると、この円安時代、早期予約による割引が効いているとはいえ、片道の交通費だけで馬鹿にならない。モチベを回復させるべく、翌朝、指先にジェルネイルを、毛先にパーマをあててもらいに行った。爪や髪のために（それぞれ）2時間も拘束されるのは正直あまり得意ではないが、それを乗り越えた結果、透き通った翡翠色のネイルと、髪を乾かすだけでカールが完成するという最強のビジュアル武装が完成した。
芸能の仕事をしている自分の、商品としての身だしなみのためではない、自分自身の機嫌を取るためだけの美容。予期せぬ出費ではあるけれど、想像しただけでかなり精神的に良さそう、元が取れそうだと判断した。
深夜、万全の体制で羽田空港に戻る。昨日とは異なるターミナルで再び搭乗アナウンスを待っていると、装置の故障につき出発が遅れるというアナウンスが流れ、待ちくたびれている人々からどよめきが起こった。
私も例に漏れず、40時間前のバードストライク欠航を思い出して嫌な予感がしたが、川崎と蒲田の優しい人たちのおかげで「大変だったんやな……ちゃんと点検してくれてありがてえ……」と素直に思える精神状態になっており、珍道中の始まりを記録に残しながら待つためにパソコンを開いた。
連休3日目、午前1時。やっっっっとの思いで搭乗。左隣のおじさんがポケットから出したパスポートは、ドイツのものだった。離陸後ほどなくして機内食が配られると、おじさんは気圧でパンッと蓋が張ったヨーグルトの容器を訝しげに見たあと、ゆっくりと置いた。
さらっと見回した限りでは日本人以外の利用者の方が多いくらいなのに、主食の牛すき焼き丼にも、副菜のナムルにも英語表記がない。ぱっと見て正体が明白なのがサラダとkiriチーズとクラッカーだけだった。彼はその3点だけをたいらげ、再びヨーグルトを手に取り、蓋を剥がし、白くてツヤッとした表面を見つめる。鼻を近づけて匂いを確認する。表情は渋い。読める言語での説明がない上に発酵食品特有の酸味。腑に落ちてはいなさそうだ。ドイツにもヨーグルトはあるだろうけれど、たしかに謎の料理たちが運ばれてきて「まあひとくち食べてみるか」的な勢いで口につっこむ前に、正体が何となくでも分かっていた方が絶対に安心できる。
私は咄嗟にiPhoneで「ヨーグルト」と打ち、次点の変換ワードに「yogurt」「Yoghurt」と並んでいる画面を彼に見せた。彼は二度頷き、小声で「Joghurt！」と言い、カトラリーの袋から小さいスプーンを取り出す。私も同じようにウンウンと頷く。これから14時間の長旅である。牛すき焼き丼やナムルにはほんの少し口を付けただけで食べるのをやめてしまった彼がヨーグルトを完食しているのを見て、よかったねえと他人ながらも安心してしまう私であった。
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