ゆとりがない時に聴いた、生演奏が私に教えてくれたこと。小説家・九段理江による「今日、サントリーホールで。」
「何か豊かなものに触れて気持ちを切り替えたい。美術館で何かいい展示してないかな、映画館は……」。そんな日常の選択肢に加えて欲しいのが「コンサートホール」。小説家の九段理江さんは、多忙だった時期、わざわざ足を運んで聴いた演奏から教えられることがあったと言います。サントリーホールに満たしては消えてゆく響きは、九段さんに何を語りかけたのか。エッセイを綴ってもらいました。
photo:Hiroyuki Takenouchi仕事の予定で手帳が真っ黒になっていた今年の初め、沖縄へ弾丸旅行をした。ゲスト出演したラジオでたまたま知り合った方から、首里城で一日だけ行なわれるというコンサートに誘われ、どうしても行きたくなったのだ。なかなか厳しい日程で、滞在時間はせいぜい20時間ほどの見込み。旅行に行くときは入念にリサーチをし、事前にきっちり計画を立てて、万全に体調を整えたいタイプとしては二の足を踏んだけれど、航空券の比較サイトでちょうどいいフライトを見つけて「残り一席」の字を見るなり、追い立てられるように購入ボタンをクリックしてしまった。
そんなわけで、編集者にも呆れられるほど強引な旅程を組んで、東京との気温差にぐったりしながら首里城の石畳を歩くことになったのだけれど、なんとか会場に到着した時にはすこし後悔し始めていた。体も頭も疲れきっているぼろぼろの状態で、こんなにも仕事のことで頭をいっぱいにしながら、音楽なんて聴いてもよいのだろうか……と。でも、実際に演奏が始まってみると、不思議なほど視界がクリアになり、体が軽くなった。それは音楽を聴くというより、音楽によって回復する、リセットされる、というほうが、より近い感覚だった。音楽が人間にもたらす癒しの効能というのは語り尽くされているけれど、生演奏がここまでダイレクトに体に作用するものなのかと驚いた。結局その日は、ホテルでゆっくり寝て過ごそうと思っていた午後の予定を変更し、夜までたっぷり観光を楽しんだ。要するに、元気になっていたのだ。
あとから振り返ってみると、やはり多忙だった時期の記憶は曖昧で、うまく思い出すことができない。思い出せないというのは冷静に考えると恐ろしいことで、それはつまり、生きていたかどうかさえも怪しいということではないか。けれど、無理やり仕事の合間をぬって聴いたコンサートのことは、妙に鮮明に細部を覚えている。耳ではなく、体が覚えている。私はたしかに、あの場所、あの時間にいて、音楽によって生じた体の変化に感じ入っていた。生きている、というシンプルな実感をよろこんでいた。
再現されることのない一回性の音楽が、その後の生活にもたらす影響は大きかった。弾丸旅行はさすがにハードルが高いにしても、定期的に生の音楽に触れたいと思うようになり、少しでもアンテナに引っ掛かる都内の公演情報を見ると、とりあえずチケットを買ってしまう。大事なポイントは、その日に音楽鑑賞をするだけの気持ちや時間のゆとりがあるかどうかを計算しないこと。ジムに行ったり、良質な食事をしに行ったりするのと同じように、音楽を聴きに出かける習慣を、心のメンテナンス的に取り入れてみるのだ。もちろん、余裕を持って優雅に楽しむのが音楽鑑賞の理想的な形ではあるのだけれど、むしろ余裕がない時ほど、自分に今どれほど余裕がないのかを、音楽が教えてくれることもある。マッサージを終えたあとになって初めて、それまで自分の体がどれほど硬く、緊張していたかを知るみたいに。
とはいえ、もしも一年前の自分にこんな話をしたら、「家でじっとしているだけで新しい音楽が次々と配信される時代にあって、わざわざその場に行かないと聞けない音楽なんてあるの?」とか言われそうだ。それでも、たとえば赤坂にあるサントリーホールで聴いたクラシックコンサートは、「わざわざその場に行かないと」の、代表的な体験だったように思う。
1986年、「世界一美しい響き」をめざして開館したこのホールは、ステージを客席がぐるりと取り囲むヴィンヤード(ぶどう畑)形式を日本で初めて採用するなど、360°どこを見渡しても音響へのこだわりが見受けられる。当時は先例も少ない中で、カラヤンをはじめとする世界的な音楽家の意見が取り入れて設計されたという。格式高くも人の手作り感にあふれた親密な空気に、自然と呼吸が深くなる。
なんといっても目を引くのは、総数5898本パイプから成るオルガンだろう。このホールのためだけにオーダーメイドされ、ホールの歴史とともに育ってきた、どこにも動かすことのできない楽器。スマートフォンで適当に撮影しても、CGかと錯覚するくらいには現実感のない圧巻の光景だ。ふと、おかしな妄想が働く。もし遠い未来、テクノロジーの発展とともにどんな音も機械で再現できるようになり、「わざわざその場に行かないと聴けない音楽」が本当に存在しなくなるとしたら。パイプオルガンを見たことも聞いたこともないという未来人がふらりとホールに迷い込み、この巨大な金属製パイプの集合を前にしたら、きっとものすごく驚き、「これはなんだろう?」と戸惑うのではないだろうか。そして、それがただただ美しい響きを求めて生まれた楽器だということ、かつてその一本一本を手作りした人々が存在したのだと知らせたら、もっと驚くに違いない。
その荘厳な外観から、さぞ重々しい音が鳴るのだろうと思いきや、意外なやわらかさと音色の豊かさに触れた。レスピーギ「オルガンと弦楽のための組曲」。100年以上前につくられた音色と現在の空間が共鳴し、そこでしか生まれない一回きりの響きに立ち会っていると、自分の生きている今の輪郭がはっきり見えてくるような気がする。
チェリストで4代目館長の堤剛さんは、「自分が生きているという証を感じられる場所」とホールを表現する。「演奏している人も、聴いている人も、ホールも生きていて、新しい何かを一緒に創り出していける期待感や、人生の生き生きとした側面を感じられるのです」
満ち足りた心にも、荒れ果てた心にも、音楽は平等だ。私たちはいつまで生の音楽を求めるのだろう? しかしとにかく、また音楽を聴きに来る日までしっかり生きよう。そんなことを思わせてくれる、短くも得難いサントリーホールでのひとときだった。